1950年代から60年代、日本ジャズの黎明期を振り返る中牟礼貞則 & 稲葉國光 聞き手:佐藤允彦

2015年2月20日 | ヤマハ銀座ビル別館内アトリエ東京

いかにして日本のジャズが育まれたのか――。日本ジャズの黎明期にあたる50年後半から60年半ばのジャズシーンを、内田修ジャズコレクションの監修者で内田とも親しいピアニスト佐藤允彦が聞き手となり、ギタリストの中牟礼貞則と、ベーシスト稲葉國光に語って頂きました。こちらには動画に収録しきれなかったエピソードをまとめています。動画と合わせてお楽しみください。

活動の場、仲間たち

佐藤
今日はギターの中牟礼貞則さんとベースの稲葉國光さんに、50年代から60年代のジャズ・シーンについて聞かせてもらいたいんですけど、ふたりは「銀巴里」で一緒だったでしょ。そのあと、稲葉さんはどんなひととやっていました?
稲葉
「ジャズ・ギャラリー8」に出ていましたね。小津昌彦と大野雄二と、竹田コルトレーン(武田和命)なんか。
佐藤
あのころ、稲葉さんはほとんど毎日のように「ジャズ・ギャラリー8」でやってたんですか?
稲葉
そう、ギャラが350円ぐらいで。
中牟礼
エッ、350円? 「ジャズ・ギャラリー8」のギャラが?
稲葉
昼夜やってましたもん。
中牟礼
それ、話の途中だけどさ、350円? 稲葉さん、やっぱり稼ぎがいいや。俺は200いくらでねえ。お金、もらうじゃない。それでね、かみさんのために数寄屋橋のフード・センターでケーキを買って、家に帰るの。子供が生まれたばっかりでさ。「お土産」っていって、250円くらいでケーキを。あのころ、250円くらいでけっこういいケーキが買えたのね。
佐藤
ぼくは一番最初、なんにもわかんないのに「カリオカ・クラブ」っていうところで演奏してたのね。最初のドラマーが渡辺文男ちゃん。
中牟礼
「カリオカ」、覚えてるよ。佐藤さんたちのあとかな? 徹ちゃん(小西徹)がいたんですよ。徹と文男ちゃんと。
佐藤
文男ちゃんは、なんだか知らないけど富樫(雅彦)さんがいなくなっちゃったんで、後任としてコージー・カルテット(秋吉敏子のバークリー留学に伴い、メンバーだった渡辺貞夫が引き継いだグループ)をやりに横浜の方へ。そのあとに入ってきたドラマーが石塚(貴夫)さんというひとで、あの、オールアートの社長さんになるひと。そのころは、学校から帰るとすぐ有楽町の「ママ」にレコードを聴きに、勉強しに行ってたんですよ。そのときでコーヒーが80円、ソーダ水が60円だったという、そういう時代ですからね。それが57~8年だから。「ギャラリー8」とか「ピットイン」とかができたのは64年とか65年でしょ。そのころは「ギャラリー8」でやると800円とかじゃなかった?
中牟礼
800円とかだったの?
稲葉
渡辺貞夫さんが帰ってきてからあそこ、いっぱい入るようになったんですよ。だから少し高くなったんです。満員で入れなくなってパトカーが来ちゃったりなんかして。

「ピットイン」思い出

佐藤
稲葉さんはそこの常連で、すごく忙しかった。
中牟礼
いろんなところで、1日中ベース弾いてたでしょ。
佐藤
「ピットイン」にもいっぱい出てたでしょ?
稲葉
そうね、「ピットイン」、あと「タロー」があったでしょ。だから楽器担いであっち行ったりこっち行ったり。
佐藤
稲葉さんが白木(秀雄)バンドに入ったのは何年ですか?
稲葉
年号は覚えてないんだけど、ぼくが32ぐらいかなあ? そのときに大野雄二と日野君(皓正)とトコちゃん(日野元彦)とぼくで、日野君の最初のLP(『アローン・アローン&アローン』)を作ったんですよ。
佐藤
そのとき、村岡建はいなかった?
稲葉
まだいなくて、4人だけだったの。その前に、日野君が白木バンドに引っ張られたでしょ。それでメンバーを代えるっていうんで、大野君が入って、ぼくが入って、村岡建が入って。
佐藤
その前って、白木さんのバンドには誰がいたんですか?
稲葉
栗田(八郎)さんと世良(譲)さんと松本(英彦)さんと白木さんかな。それでナベプロで給料が出て、ぼくらは月に1週間くらいやると給料がもらえる。だから空いてるときは日野君なんかと恵比寿のヤマハで練習するんですよ。
佐藤
プーさん(菊地雅章)はまだいないの?
稲葉
これはプーが入る前の話。ぼくらは日野君のバンドでシャープス&フラッツの前座みたいなのをコンサートでやってた。そのときは大野雄二だったの。プーはシャープにいて、「ユーたちかっこいいな、俺、入れてくれよ」って言ってきて、大野雄二を退けて入ってきちゃった。それで恵比寿のヤマハで練習して、そのときには村岡建もいて、それで日野君のクインテットが始まったの。練習していると、一番遅れてくるのがプーなんだよね。遅れてきたやつがみんなにコーヒーを奢るんだけど、それでも遅れてきて、いつも彼が払っていた。面白いグループですよ。ライヴ・ハウスでやってたら、演奏中にプーがピアノをやめてベースとドラムのところへ来て「スイングしろ」って叫ぶわけ。それで戻ってピアノを弾きながら「イヤーゥオー」みたいな唸り声をあげるから、「おい、猫がいるぞ」っていってピアノの下をみんなでのぞいたりしてね。「猫、どこだ?」なんていって、やってた。
佐藤
中牟礼さんは「ピットイン」、あんまり出てない?
中牟礼
出てましたよ。「ピットイン」というと、トコちゃんといのちん(井野信義)と、定期的にやってました。あのころの録音がどういうわけかうちに残っていて。それはぼくのセットじゃなくて、トコちゃんがリーダーのトリオ。だからぼくにとってはトコちゃんが基準で、いまでもトランペットの日野君には「兄貴、兄貴」って、ぼくは呼んでる。「兄貴、元気?」っていうと、「兄貴って誰だ?」なんていわれるけど。
佐藤
録音といえば、内田先生のテープを別にすれば、当時のライヴ録音はあまり残っていませんね。
中牟礼
内田先生が録音してくれてたから、ぼくたち、ときどきプレイバックが聴けたじゃないですか。あのころは自分がどういう演奏をしたか、それを聴く機会がなかったんです。聴く機械も持ってなかったし。先生だってこんなでっかいテープレコーダーを持ってこなくちゃならなかったわけだし。自分の演奏を聴くのって相当大事なことなんじゃないかなって、いまになって思うんですよ。時間が経っていく間に変化していくから、もう遅いんだけど。あの時期にもう少し自分の演奏を聴いていれば、ロスが少なかったんじゃないかなって思う。やるべき優先順位が違ってくるとか。ちゃんと聴いていれば、「これはやらなくてもいい」とか、「こっちをやったほうがいい」とかがわかったかもしれない。いまになってそう思いますね。稲葉さんは再生装置を持っていたのかな?
稲葉
持ってないですよ。なんにも持ってないよ。牟礼さんだよ、持ってたのは。
中牟礼
稲葉さんはオープン・リールのテープレコーダーを持ってなかった。ぼくは持ってたんですよね。
稲葉
なんでも持ってたんですよ、このひとは。
中牟礼
でもチェックするほど録音はできなかった。
佐藤
だけど徳山(陽)さんなんかは自分で録音してたんでしょ? それで翌日になると、そのひとのソロがぜんぶ譜面になってて、「ちょっとうかがいますけど、ここの音はどういう気分で弾いたんですか?」なんていわれるって聞いたことがありますけど。

当時のセッションの熱気

中牟礼
いまのプレイヤーたちは、みーんな同じように自分を知ってて、他人も知ってるから、「どうしたんだよ?」っていうことでの喧嘩はないですよね。昔は「それ、遅いんだよ」とかいって、相手は「遅くない」ていったら、最終的には殴り合いにまでいった。いまはみーんな自分がどのくらいのポジションにいるかがわかってるから、喧嘩なんかしない。
佐藤
だって、あのころはそれで一晩過ぎちゃったりしてたじゃない。
中牟礼
そういうのを毎晩のようにやってた。
佐藤
最近はクールになってるから。
中牟礼
いまはミュージシャン同士で、しかもおんなじ空間の中でいい合うってことはまずない。でも、昔はあったんだよね。ぼくなんかとなりのひとから「これ、下がってくる(フレーズの)ディミニッシュだよ」なんていわれたことがある。そんなのどっちだっていいじゃない。どうせそこに行くんだから、下がっていこうが上がっていこうがいいでしょ? でも「下がっていくんだよ。上がっていくんじゃないんだよ。どっちのディミニッシュを使うんだ」っていい張る。そんなことまでいわれるんだもの、しかも演奏する寸前にいわれるんだから。だからそこに来たらなんにも弾かないで黙って見てるの。いまはそういうことがないからすごくいい。…こういっていいのかな?
佐藤
いや、僕はそれは不幸だと思う。なんかクールだもの、みんな。あのころって、セッションに行ったらみんな必死になって、くらいついて聴いて、「あいつらなにやってんだろう?」とか。いまはセッションやってても、みんなこっちでなにか話をしてて、自分の番以外は聴いてないもんね。
中牟礼
やっぱり、いろんな意味で便利? だから工夫がなくなった。それにしても内田先生が録音していたテープ、あれをあの時代にもっと聴いていたらよかった。
佐藤
それだけに、この復刻シリーズはミュージシャンにとってもファンにとっても大切なものになるでしょうね。本日はお二方、どうもありがとうございました。